泡瀬干潟埋め立て事業の経緯

※本表は、荒木晴香氏が「アジア・太平洋の環境・開発・文化No.6、2003年(日本学術振興会 未来開拓大塚プロジェクト事務局)に発表したものの一部を、同氏の了解の下に掲載させていただいた(OT=沖縄タイムス、RS=琉球新報)。年表化にあたり一部を改変した。
なお、2003年以降については連絡会で整理しており、近日中に掲載の予定である。

1974年4月

旧コザ市と旧美里村が合併し沖縄市が誕生した。この合併は、海に面していなかったコザ市が、発展の可能性を旧美里村の東海岸へ求めたということが背景にあった。
1984年3月 市三役と泡瀬復興期成会理事が泡瀬海浜リゾート開発構想について懇談を行った。
1984年10月 沖縄市民会館で、「沖縄市政10 周年記念都市シンポ」が沖縄市と沖縄地域科学研究所の共催で行われた。この講演の中で当時の桑江市長が「泡瀬半島埋め立て構想」を提起している。
1985年 「沖縄市東部海浜地区振興開発懇話会(座長:田里友哲琉球大学名誉教授)」が開催され、東部海浜の振興開発のあり方が議論された。
1987年3月 東部海浜地区埋め立て構想としてA 案:340ha、B 案:219ha、C 案:292ha の3 案が作成された。この頃は隣接する中城湾港新港地区の埋め立て工事が本格化し、1987年の海邦国体を控え、泡瀬を中心とする沖縄市東部が注目を集めていた時期であった。またバブルの最中で、ゴルフ場をメインにホテル等を配置するというこの計画は、世間の注目を集めた。
1987年6月 東部海浜地区の開発が沖縄市新総合計画に位置付けられた。
1989年1月 東部海浜開発局設置。
1989年3月 市議会において東部海浜開発に関する要請が決議されるなど、市は積極的に計画を推進していた。同月に「東部海浜地区開発計画調査委員会(委員長:山里将晃琉球大学教授)」が設置され、同委員会によって東部海浜地区埋め立て計画が作成された。これによって、1987年に作成された事業構想が、具体的な計画となった。
この計画は、@海洋性リゾート拠点の形成と水産業の振興A市民レベルの国際交流拠点の形成B市民のためのアメニティ空間の形成C教育拠点の形成、を基本方針とするものであった。内容としては、泡瀬の南側の海岸線から陸続きで約240haを埋め立て、埋立地にはゴルフ場やリゾートホテルなどを建設するという計画であった。
1989年10月 海岸線やヨネ(砂洲)の保全などを求めて「泡瀬復興期成会」から埋め立て形状の変更の要望書が提出され、市は計画見直しを迫られた。同会は1990 年にも同じ内容の要望書を提出し、計画内容に反対している。この計画では泡瀬半島をゴルフ場で取り囲み、泡瀬が海を失うこととなるものであること、またゴルフ場そのものに対しても、農薬汚染等の問題も提起された。しかし泡瀬の有志たちは同時に「泡瀬ビジュル会(現沖縄市東部開発研究会)」を組織し、より環境への負担の少ない埋め立て方法を独自に研究し、出島形式での埋め立て、ゴルフ場計画見直し等を主要な内容とした代替案を提案した。それは、泡瀬を中心とした開発計画が行われることは、泡瀬の発展につながることであると考えられたからであり、また当時すでに生活排水によって汚れていた海をきれいにするために、開発事業によって新たな環境を創出しようという考えもあったといわれる。
1989年11月 「沖縄市東部海浜リゾート推進協議会」が設置され、また同計画に関するシンポジウムが開催されるなど、民間での事業推進の動きも現れ始めた。ところが、市の単独では事業を行えないことが明らかになった。当時、東部海浜開発局に所属していた人の話によると、同局の職員は皆埋め立て事業については素人であったため、中城湾港は県の管理下にあり、湾内で埋め立てを行う場合には港湾管理者である県の承認が必要であるということを知らなかった、ということであった。また、事業主体が港湾管理者つまり県でないと国の補助を受けられないということもわかったのである。そのため、市は同事業計画を県の港湾計画に位置付ける必要がでてきた。市は1990 年次の港湾計画改訂に泡瀬地区を位置付けることを目指したが、地元の合意形成ができずに見送られることとなった。またその直前の市長選で、事業を強力に推進してきた桑江市長が新人の新川秀清氏に敗れたことも、港湾計画への位置づけを見送った原因の1つだと言われている。その後、市は泡瀬ビジュル会からの提案を受け入れた。
1991年 人工島形式や埋め立て面積の縮小などを取り入れた計画修正案を作成し、地元の合意を取り付けた。
1991年7月 沖縄市が、自然環境保全上の配慮事項等を検討する「沖縄市東部海浜地区自然環境保全検討委員会(委員長:池原貞雄琉球大学名誉教授)」を設置した。
1993年3 月 沖縄市は「中城湾港泡瀬(沖縄市東部海浜)地区基礎調査」を実施して計画の再検討を行い、土地利用構想(埋め立て面積220.6ha)を作成、同年7 月には東部海浜開発に関する市民アンケート取りまとめた。
1994年12月 沖縄県が「中城湾港港湾計画検討委員会(委員長:藤野慎吾(社)日本港湾協会理事長)」を設置し、港湾計画案(埋め立て面積185ha)を作成した。
1995年10月 沖縄県が「中城湾港(泡瀬地区)港湾環境計画検討委員会(委員長:池原貞雄琉球大学名誉教授)」を設置し、全国第1 号となった港湾環境計画を作成した。
1995年11月 沖縄県地方港湾審議会、中央港湾審議会での審議を経て、沖縄県が港湾計画の一部変更を行い、泡瀬地区(埋め立て面積185ha)を県の港湾計画の一部として位置づけることを決定した。
このような経緯で泡瀬埋め立て事業は、環境に配慮し陸域からおよそ200m 沖合いに造るという出島方式で埋め立て面積も185ha に縮小した、港湾計画の一部として再び作成された。市、県としての着工準備は整いつつあったが、実際はあまりに規模の大きい事業計画であったため、国からの補助が下りずにしばらく頓挫したままになっていた。
1995年10月 第1 回東部海浜開発早期実現市民総決起大会が開催され、また同時期に沖縄市議会において、中城湾港泡瀬地区早期開発に関する意見書が可決されるなど、事業の早期実現を求める動きが起こった。
1998年 内閣府沖縄総合事務局が参画することによってこの事業は一気に進展することとなる。これは隣接する中城湾港新港地区の航路整備を促進するために、その浚渫土砂を活用できる埋立地が必要であるという事情が生じたためである。新港地区は泡瀬半島の北側に位置する393ha の埋立地である。うち122.4ha が特別自由貿易地域(FreeTrade Zone)に指定されている。特別自由貿易地域とは、立地企業に対して税制・金融上の優遇措置が講じられた地域のことである。沖縄における企業の立地を促進するとともに、貿易の振興に資するため、日本においては、沖縄県のみに適用されている制度である。新港地区の整備は、特別自由貿易地域制度の成否を左右するものであった。新港地区が特別自由貿易地域として機能するためには、大型船舶が入港できる航路を浚渫する必要があった。国はその土砂処分場として、隣接する泡瀬地区の埋め立て事業に目をつけたのである。市も事業費の軽減につながると、国の申し入れを受け入れた。こうして、泡瀬干潟埋立事業は国、県の手へと移ったのである。
1998年7月 沖縄総合事務局は、泡瀬海域に生育するボウバアマモとリュウキュウアマモという海草の移植実験を開始した。これらの海草が構成する藻場は、魚介類の産卵場や幼稚魚の保育場としての役割を担っている。埋め立て事業によって一部の藻場が消失することの代替措置として、今後埋め立て予定地内の密生濃生域約25ha の藻場を移植することが計画されている。この段階では、ダイバーによって1 株1 株移植するという「手植え移植工法」による実験が行われた。
1999年3月 沖縄市、南原両漁協との漁業補償が妥結された。
1999月4月 沖縄総合事務局は、環境影響評価(アセスメント)準備書の公告、縦覧を行った。環境影響評価準備書とは、事業による干潟環境や生物への影響などについての調査結果をまとめたものである。1 ヶ月間の縦覧期間を設け、市民からの意見を受け付けた。
1999年11月 事業推進のネックとなっていた泡瀬通信施設保安水域に関して、同水域(月末)の一部共同使用の協定が日米間で締結された。泡瀬には米軍の通信施設があり、埋め立て予定地の37.4haがその制限水域にかかっていたのである。沖縄市は当初、制限水域の解除を強く求めていたが、電波障害を懸念した米側がそれに応じなかった。そのため制限水域にあたる埋め立て後の土地を、米軍との共同使用とすることで両者は合意することとなった。この共同使用地は日米地位協定の規定により、引き続き米軍が管理権を持つ米軍専用の土地となる(OT’99.11.2)。
漁業補償と米軍基地の制限水域という2 つの大きなハードルを越し、国と県は年度内の着工を目指していた。
ところが11 月末に、学者らでつくる県知事の諮問機関である「県環境影響評価専門委員会」が、埋め立て予定地内に絶滅危惧種のクビレミドロが生息している可能性を指摘した。そのため国と県は12 月から生息調査をすることとなった(OT’99.11.28)。
1999年12月 「琉球湿地研究グループ」(藤井晴彦代表)が、泡瀬埋め立て事業の環境影響評価のずさんさを指摘し、「正当な環境アセスをやり直すべきだ」と訴えた。国と県はクビレミドロについては生息調査を行ったが、アセスの全面的な見直しについては「準備書に問題はなく、再調査は考えていない」との姿勢を示した(OT’99.12.8)。
2000年2月 沖縄総合事務局は2000 年2 月から、埋め立て予定地に生息する絶滅危惧種のクビレミドロの移植実験を開始した。クビレミドロが多数生息している金武湾港の屋慶名地域へいったん移植し、埋め立て完了後の人工干潟に再移植する計画である。
2000年3月〜4月 沖縄総合事務局は、環境影響評価書の公告、縦覧を行った。前年クビレミドロの生息が指摘されたことをうけて、沖縄総合事務局は追加調査を行った。しかし環境影響評価書には、その調査結果の全ては記載されていなかったのである。
2000年5月 沖縄総合事務局は泡瀬地区の公有水面埋め立て承認願書を県に提出した。県は環境影響評価を含め審査し、沖縄市や関係行政機関の意見照会を経て承認を行う。
2000年6月 沖縄市議会において、中城湾港(泡瀬地区)内の公有水面埋め立て免許承認・免許の出願についての同意が決議された。
2000年8月 「琉球湿地研究グループ」、「沖縄野鳥の会」など県内9 つの市民グループや自然保護団体が環境アセスメントの見直しを求める意見書を国、県に提出した。そのことを受けて同月、「琉球湿地研究グループ」など6 団体と沖縄総合事務局、県の職員らが意見交換会を行った(OT’00.8.19夕)。
2000年9月 仲宗根正和沖縄市長は県庁に石川秀雄副知事を訪ね、泡瀬埋め立て事業の推進を要請した。この要請には仲宗根健昌「沖縄市東部海浜リゾート推進協議会」会長や沖縄市選出の県議3 人が同席した(OT’00.9.23)。
2000年10月 沖縄県議会において「中城湾港(泡瀬地区)臨海部土地造成事業特別会計予算(20 億円余)」が可決された。採決の際には宮里政秋氏(共産)、糸数慶子氏(社大)が環境問題への対応が十分でないなどとして退場した(OT’00.10.4)。
同月、仲宗根正和沖縄市長は「中城湾港泡瀬地区の環境保全に関する検討委員会」の設置を沖縄総合事務局に要請した。委員会の設置によって、事業着手後に行われる環境調査に市民の意見を反映させることを目的としている(OT’00.10.6)。
同月、共産党県議団が計画の見直しを県に要請した(OT’00.10.7)。また「琉球湿地研究グループ」や「沖縄環境ネットワーク」などの主催で、「国際湿地シンポジウムin 沖縄」が開催された。その総会において、環境アセスのやり直しと公共事業の是正を求める「泡瀬宣言」が採択された(OT’00.10.15)。また野党市議や市民団体などによる抗議活動、個人による新聞への投稿など、泡瀬埋め立て事業の中止を求める動きが徐々に広がりを見せ始める。
しかし一方では、事業推進派による「第3 回東部海浜開発早期着工市民総決起大会」が開催されるなど、事業をめぐる推進・反対の構図がだんだんとはっきりしてくる。
2000年10月末 仲宗根正和沖縄市長と仲宗根健昌「沖縄市東部海浜リゾート推進協議会」会長らは、中川秀直沖縄開発庁長官や運輸省などを訪ね、泡瀬埋め立て事業の早期着工を要請した。中川長官ら政府側は本年度着工の意向を示した(OT’00.10.27)。
2000年12月 県事業分の認可が運輸省より与えられた。そして同月中に、港湾管理者である県より、沖縄総合事務局と県に事業の認可・免許が与えられた。沖縄総合事務局が県に埋め立て事業の申請を行ったのは5 月であり、認可が下りるまでには半年以上かかっている。この背景には、県の環境部局の苦悩があったとされる。2000 年4 月の地方分権整備法(一括法)の施行で、環境面のチェックが自治体に一本化され、環境庁が意見を言う機会が失われてしまった。省庁からの通達が廃止されたため、国が事業者の埋め立ては、県知事が運輸、建設両省に承認を求める通知が要らなくなり、同時に環境庁が意見を述べることがなくなったのだ。泡瀬埋め立ては、新しいシステムの全国第一号になった。環境アセスメントには、環境保全の立場から県知事意見が記載される。一方、県知事は埋め立てを承認する開発側でもあり、二つの顔を持つことになる。環境アセスメントに詳しい東京工業大学大学院の原科幸彦教授は「(事業実施は)県庁内の環境部局、開発部局の力関係で決まる」と指摘している(RS’00.12.14)。
2001年1月 「国際湿地シンポジウムin 沖縄」の盛り上がりを受けて、「泡瀬干潟を守る連絡会」が発足した。同会は県内の環境保護団体や労働組合、共産党、個人などによって構成される。代表には、「琉球湿地研究グループ」の代表でもある藤井晴彦氏と、沖縄市議の内間秀太郎氏が就任した。これによって、今後同会が泡瀬埋め立て事業反対活動の窓口としての役割を担ってゆくことになる。
2001年2月 沖縄総合事務局と沖縄県は「中城湾港泡瀬地区環境監視・検討委員会(委員長:真栄城守定琉球大学教育学部教授)」を設置した。この委員会は、あくまで事業実施後の各種環境保全対策を監視・検討するためのものであり、事業そのものに対して意見を言う権限は付されていない。また同年3 月に、沖縄総合事務局と県は沖縄市民会館で、事業認可後初の事業説明会を開き、住民への理解を求めた。
2001年5月 「泡瀬干潟を守る連絡会」が同事業の凍結・推進を問う住民投票条例を、仲宗根正和沖縄市長に本請求した。この請求にはには、9415 人の沖縄市民の署名が添えられていた。条例制定請求に必要な署名数は有権者の1/50 の1800 人であったが、守る会が集めた署名数はそれを大幅に超える数だった。しかし沖縄市議会6 月定例会において、仲宗根市長は「制定の必要なし」との意見書を添えて、住民投票条例案を議会に提出した。そして7月の沖縄市議会臨時本会議で、同条例案は圧倒的な反対多数で否決された。沖縄市議会では、それに先立つ5 月19 日、与党議員26 人で構成する「沖縄市東部開発を推進する議員連盟」(代表・新田保友議員)を結成していた。
しかしその間も、事業の見直しを求める動きは大きくなっていった。
2001年6月 「公共事業をチェックする議員の会」の国会議員、日本弁護士連合会の湿地保全・再生プロジェクトチームがそれぞれ泡瀬干潟の視察に訪れた。また同月、赤嶺政賢衆議院議員ら共産党の干潟・湿地チームが、当時の川口順子環境相を訪ね、ラムサール条約登録の前提条件となる鳥獣保護区に沖縄市泡瀬の干潟を設定するよう申し入れた(OT’01.6.24)。
2001年7月 「泡瀬干潟を守る連絡会」は沖縄総合事務局と県に対して、中城湾港泡瀬地区埋め立て事業の抜本的見直しを要請した(OT’01.7.14)。
2001年7月 泡瀬干潟埋立事業に大きなブレーキがかけられることとなった。31日に行われた環境監視・検討委員会において、沖縄総合事務局は8 月着工予定だった同事業の本格工事の着工を当面見合わせることを委員会に報告し、了承されたのである。海草藻場の移植技術の確立を先行させるということが理由だった(OT’01.8.1)。泡瀬干潟には広大な藻場が広がっている。そこにはジュゴンのえさとなる海草も生息しており、海草藻場の保全が着工の条件として県環境部局から出されていた。また埋め立て予定地には絶滅危惧種の藻、クビレミドロが生息している。クビレミドロに関してはその生活史が不明であり、人工的な移植は不可能とする専門家の意見もあった。泡瀬埋め立て事業における環境保全の問題は、トカゲハゼからクビレミドロ、海草へとその焦点が移った。
2001年8月3日 沖縄市民会館で第4 回東部海浜開発早期実現市民総決起大会が開催され、会場の大ホールは鉢巻姿の参加者で埋まった。県選出の自民党国会議員や県三役、県議会代表らが埋め立ての必要性を強調し、事業者の沖縄総合事務局の代表者も、市民のための事業であることを繰り返した(OT’01.8.4)。
2001年8月9日 稲嶺知事は仲宗根沖縄市長とともに上京し、尾身幸次沖縄担当相に泡瀬干潟埋め立て事業の推進を要請した(OT’01.8.9 夕)。
2001年8月29 日 沖縄市内における推進・反対の対立の構図はますますはっきとしてくる。住民投票条例制定を求めてきた市民らは、県庁で会見し、「泡瀬干潟を守る連絡会」のサポートを受けて別の市民団体を発足させて再び請求することを表明した(OT’01.8.30)。
2001年8月31 沖縄市それに対し事業推進派は、沖縄市軍用地主会館で準備会を開き、事業の早期実現を求める署名活動を目的とした「美(ちゅ)ら島を創る市民の会(仮称)」を結成することを決めた。同会には事業推進派の市議会議員や団体代表らが参加した。
2001年9月上旬 「公共事業チェック議員の会」のメンバーが再び泡瀬干潟の視察に訪れ、沖縄総合事務局、県、市の担当者と意見を交わした。席上、議員らは埋め立て中止を強く求めた(OT’01.9.6)。
2001年9月6日 「美ら島を創る市民の会」設立総会は、沖縄市産業交流センターで開かれ、約120 人が参加した。有権者の半数を超す5 万人署名を目標に掲げた。同会長には比屋根清一市物産振興会長が選ばれた。役員は、泡瀬地区や婦人連合、自治会長会、福祉協議会、飲食業組合、建設業会などの代表、市議会議員が就任した(OT’01.9.7)。
2001年9月18 「泡瀬干潟を守る連絡会」の藤井晴彦共同代表らは、県庁で屋比久孟尚土木建築部長に泡瀬埋め立て事業中止を要請した(OT’01.9.19)。
2001年9月25 沖縄市議会で、市が2000 年に実施した、泡瀬埋め立て事業での企業進出意向調査で、進出意向を示した企業はわずか2 社だったことが明らかになった(OT’01.9.25 夕)。
2001年9月29日 住民投票条例制定を求めてきた市民らは、再び住民投票を請求するため、市産業交流センターで結成総会を開き、70 人余が参加した(OT’01.9.30)。
2001年10月11 環境省は、泡瀬干潟を含む全国500 ヶ所の「重要湿地」を選定した。環()境省は、選定場所の開発に際しては、環境に配慮するよう求めている(OT’01.10.12)。
2001年10月25日 沖縄市「美ら島を創る市民の会」の代表らは尾身沖縄担当相を訪ね事業推進を陳情した。
それに対し尾身大臣は、市民の半数以上の署名を集めることを要求した。同会は当初、署名の目標を5 万人に設定していたが、陳情後に目標を7 万人とし精力的な署名活動を行った。
2001年11月20日 沖縄タイムス朝刊の一面に、泡瀬干潟埋め立て反対57%、賛成24%という記事が載った。沖縄タイムス社の行った世論調査の結果、68%が住民投票を実施すべきと回答し、また75%が市の説明が十分でないと答えたことが明らかになった(OT’01.11.20)。
沖縄総合事務局と県、市は、泡瀬埋め立て事業を「環境に配慮した事業」としている。しかし沖縄総合事務局が泡瀬干潟周辺で行っている海草藻場の移植実験によって、干潟の環境が荒らされていることが、「泡瀬干潟を守る連絡会」の指摘で明らかになった。実験地周辺に張り巡らした汚濁防止膜の重りによって海底がこすられ、藻場や底生生物に被害がでていたのである(OT’01.11.21)。
2001年11月22日 「美ら島を創る市民の会」の主催によって泡瀬公民館で行われた、事業の早期再開を求める総決起大会には、千人を超える参加者があった。
2001年11月28日 沖縄市役所では仲宗根市長が課長以上の管理職を集め、泡瀬埋め立て事業推進を再確認する異例の緊急訓示をした(OT’01.11.28 夕)。また同時期、「美ら島を創る市民の会」が作成した事業推進署名を、沖縄市管理職の一部が職員に指示していたことが明らかになった。この問題を受け市職員労働組合が市当局に抗議する(OT’01.11.30 夕)など、市役所内での焦りや混乱が見てとれる。
2001年11月29日 この頃には環境、開発問題を地域を超えて取り組もうとする具体的な動きも現れ始める。中城湾に面する11 市町村議会の議員が、11 月29 日、埋め立て問題や海洋資源開発を共同で研究調査する「環中城湾議員ネットワーク」を結成した。これは「泡瀬干潟を守る連絡会」の内間秀太郎沖縄市議や當間秋子具志川市議らの呼びかけで実現した。
2001年12月12日 推進派の市議連盟の新田保友代表ら15 人は、沖縄総合事務局に計画の早期着工を要請した(OT’01.12.12 夕)。また同日沖縄市内のホテルでは、内閣府の仲村正治副大臣と中部市町村長の昼食懇談会が開かれた。この中で仲宗根沖縄市長は、泡瀬干潟埋め立て事業について、工事の早期再開を要請した(OT’01.12.13)。
2001年12月19日 海草移植実験を一時中断していた沖縄総合事務局は、重りの改良などを図り、12 月19日から再び実験を開始した。
2001年12月19日 仲宗根沖縄市長と地元推進派グループ代表らは、8 万人の推進署名を携えて上京した。そして尾身大臣に諸名簿を提出し、改めて事業の早期再開を求めた。この8 万人という数は沖縄市の全人口の7 割弱にあたるという驚異的な数字であった。署名の中には二重三重に名前のある人や、赤ちゃんの名前まであった。建設業界や商工会では、社員だけでなく下請けや出入り業者にも署名用紙を配布し、推進派の市議らは個別訪問を繰り返し、署名をかき集めたという。
2002年1月18日 「大事なことはみんなで決めよう住民投票市民の会」は、泡瀬干潟の埋め立て事業の是非を問う住民投票条例の制定を、沖縄市に対し本請求した。6991 人分の署名が添えられていた(OT’02.1.19)。
2002年2月6日 沖縄市議会は、泡瀬干潟の埋め立て事業の是非を問う住民投票条例案をまたも反対多数で否決した。泡瀬干潟の埋立事業に関する住民投票条例案が否決されたのは、2001 年7 月に続き2 度目であった。
2002年2月7日 仲宗根沖縄市長は尾身沖縄相を訪ね、一日も早い工事再開を要請した。前日の市議会において住民投票条例案が否決されたのを受けてのことであった。尾身大臣は推進署名と二度の住民投票条例案の否決で、事業推進に向けて市民の理解が得られたとの見解を示した(OT’02.2.8)。
2002年2月8日 沖縄市民会館で「泡瀬干潟埋立事業を検証するシンポジウム」が、日本弁護士連合会の主催によって開催された。パネリストとして、沖縄総合事務局開発建設部港湾計画課の坂井功課長、沖縄県土木建築部の久米秀俊参事、沖縄県文化環境部自然保護課の石垣英治課長、名桜大学の小浜哲教授、「琉球湿地研究グループ」の藤井晴彦代表、「美ら島を創る市民の会」の西田健次郎会長代行が参加した。6 人は事業者、推進派、反対派を代表し、環境保全や地域振興の在り方などについて意見交換した。会場には200 人余が詰め掛け、事業に対し様々な質問や要望が寄せられた(OT’02.2.9)。
2002年2月22日 那覇市内で行われた環境監視・検討委員会は、事業の大きな転機となった。委員会では事業者から、「機械化移植工法による海草の移植は総合的に見て可能」との報告がなされ、委員会に了承された。
2002年2月26日 環境監視・検討委員会報告を受け、尾身沖縄担当相は記者会見で、泡瀬埋め立て事業について「環境問題はめどが立ち、地元の政治態勢も整っている」と事実上のゴーサインを出した(OT’02.2.26 夕)。
これまで事業が事実上凍結されていた原因は、「地元合意」「環境保全」「土地利用計画」の三つが整っていないためであった。このうち「地元合意」については、過去二度にわたって市議会で住民投票条例案が否決されたことと、約8 万人の推進署名によってクリアされたと見なされた。「土地利用計画」については、県と市が埋立地の需要予測の確認作業を進めていることをもって良しとしている。確認作業について尾身大臣は「きちっとした見通しがなくても、そこそこの見通しがあればやることは基本的に決まっている。」と発言している。そして残る「環境保全」の問題が、2 月22日の環境監視・検討委員会によってクリアされたと見なされたのである。
2002年2月28日 尾身沖縄担当相の発言を受け、「泡瀬干潟を守る連絡会」のメンバーは沖縄総合事務局を訪れ、「環境問題は一応めどがたった」とする大臣の発言に対して抗議を行った(OT’02.3.1 夕)。
2002年3月8日 泡瀬干潟を守る連絡会は緊急幹事会を開き、緊急抗議集会の開催や、6 月末までに市内外から10 万人の反対署名を集めることを確認した(OT’02.3.9)。
2002年3月8日 県と沖縄市は事業の根拠となる土地利用計画の需要予測の確認作業を終え、比嘉茂政副知事と仲宗根沖縄市長が内閣府と国土交通省に出向いて報告した。
これを受けて尾身沖縄担当相は「県、沖縄市と事業を進めていくという合意をした。今後も環境に配慮しながら進めていきたい」と述べ、早期着工へ向けてゴーサインを出した。
一方で尾身大臣は「第U区域については時間もあるので、土地需要の見通しをあらためて検討していただく」とし、残された第U区域の実施については含みを残した。県が発表した埋め立て理由書の改訂版によると、観光リゾートの予想入域客数は結局、見直し前後で変化はなかった。改訂前の、予測客数と宿泊数をかけ合わせただけの数式は、今回は「地元の努力で観光地形成は可能」とする言葉での.意気込み.に入れ替わっただけであった(OT’02.3.8 夕)。
2002年3月12日 4 月21 日投開票の沖縄市長選の候補者を検討していた、社民、共産など革新系市議団や市民グループでつくる「沖縄市を再生する市民の会」は、沖縄市福祉部長の桑江テル子氏(63)に出馬要請した(OT’02.3.13)。桑江氏は福祉、平和、女性の問題に取り組む市民団体「うないネット・コザ」の主宰でもある。
2002年3月15 日 尾身大臣が早期着工の判断を下したことを受けて、沖縄総合事務局は「第T区域を対象に、当面、トカゲハゼの保全に支障のない範囲で作業を進める」と発表した。4 月から7 月までは、国内で中城湾にしか生息しない絶滅危惧種トカゲハゼの産卵期にあたるため、海上部分の着工は8月以降になるとの見通しを示した(OT’02.3.16)。
2002年3月20日 沖縄総合事務局は護岸工事や橋梁工事などに使う石材の搬入作業を開始した。8 月以降の本格的な海上工事に向け、石材は同事務局中城湾港出張所のヤードに保管した。当面の作業として@石材の搬入A測量台(やぐら)の海上設置のための調査や汚濁防止膜の設置場所を決める調査、を行うとしている。これに対し「泡瀬干潟を守る連絡会」のメンバーらは、資材搬入場所である沖縄総合事務局中城湾港出張所前でシュプレヒコールをあげて抗議した(OT’02.3.20 夕)。
2002年4月 沖縄市長選での対応を協議していた社会大衆党沖縄支部は、特定の候補者を支持せず自由投票で臨む方針を固めた。同支部は新人の桑江テル子氏(社民、共産推薦)の推薦を困難と判断した。
最大の争点となる泡瀬埋め立て事業について同支部は推進の立場だが、桑江氏が事業の凍結、住民投票の実施を公約としていることを理由に挙げた。また1998 年の前市長選以来、社民党とは確執がありそれが解消されていないことも理由となっている。同支部は前回の市長選を機に与党入りしたが、今選挙を前に仲宗根市政の政策を総括し与党からの離脱を決めた(OT’02.4.4)。
2002年4月4日 世界の湿地保全に取り組む国際機関「ラムサール条約事務局」(本部・スイス)が、泡瀬干潟埋立事業について日本政府に慎重な検討を求める書簡を送った。泡瀬干潟が世界的にも貴重な場所であることが証明されたのである。
2002年4月6日 「美ら島を創る市民の会」は沖縄市内で泡瀬埋め立て事業の工事再開を祝う市民集会を開き、仲宗根市長や商工会、経済団体など事業推進派が多数詰め掛けた。集会には嘉数知賢衆議院議員、比嘉茂政副知事、県議、市議団らも出席した(OT’02.4.7)。
2002年4月11日 「泡瀬干潟を守る連絡会」の前川盛治事務局長らは県庁で会見し、沖縄総合事務局が行った海草移植実験について「移植先を調査した結果、実験は失敗している」と説明した。「移植はおおむね順調」とした環境監視・検討委員会の判断に疑問を呈した(OT’02.4.12)。
2002年4月14日 「干潟を守る日」にちなみ、埋め立て事業が着工された泡瀬干潟のうち5 キロを、人の手でつないで環境保護を訴えるイベント「浜下りだ!みんなでつなごうSea 泡瀬(しあわせ)の輪」(主催・同実行委員会:東条渥子代表、事務局:砂川かおり)が実施された(OT’02.4.15)。
2002年4月21日 沖縄市長選の投開票日。現職の仲宗根氏と新人の桑江氏の一騎打ちとなった今選挙では、現職の仲宗根氏が再選した。泡瀬干潟埋立事業の凍結を訴えた桑江テル子氏は、4488 票差で敗れた。この結果を受けて、仲宗根市長は市民の合意は得られたと解釈し、強力に推進する考えを述べた(OT’02.4.22)。
2002年5月17日 「泡瀬干潟を守る連絡会」(内間秀太郎代表)が開示請求していた中城湾港泡瀬地区埋め立てに伴う漁業補償に関する公文書が公開された。 沖縄タイムス社の調べによると、漁業補償の算定で操業実態のない魚種を補償対象に加えていたことがわかった。また、補償額の算定根拠の主要指数である「漁場依存率」の算定方法も極めて不自然で、漁業補償額算定の不透明さがあらためて浮き彫りになった。同事業の漁業補償をめぐり、県は当初7 億円を漁協側へ提示したが漁民側が納得せず、最終的に1999 年3 月当初額の約3 倍の19 億9 千8 百万円で決着した(OT’02.5.23)。
守る会や沖縄タイムス社などの指摘によって問題となっていた、泡瀬埋め立て事業に伴う漁業補償の算定に関し、県港湾課は5 月23 日、補償額を確定する県と地元漁協との交渉過程で、双方の合意額に見合うよう算定数値を調整してきたことを認めた。最終的な合意額約20 億円に合わせ逆算方式で算定数値を組み立てたことになる(OT’02.5.24)。
2002年5月28日 県は「泡瀬干潟を守る連絡会」と沖縄総合事務局の担当者が参加する初の意見交換会を県庁で開いた。県港湾課の赤嶺副参事は市議会の全会一致の推進決議を挙げ、埋め立ては市民総意であることを強調した。一方守る会の前川事務局長は、進出を希望する企業が2 社しかなかった沖縄市のアンケート結果を示し、公有水面を埋め立てる必要性も緊急性もないと批判した。会合の席で県港湾課の担当者が、民意が割れ、事業推進が困難になっている現状を率直に語る場面もあった(OT’02.5.29)。
2002年6月4日 衆院第二議員会館で「復帰30 年、いま沖縄の自然を考える懇談会」(主催・同実行委員会)が開かれた。この懇談会は、泡瀬干潟や八重山白保の自然を守ろうと市民団体が企画したもので、「公共事業チェック議員の会」に所属する国会議員らが参加した。懇談会に先立ち市民団体は環境省を訪ね、泡瀬埋め立てで環境省独自の環境アセスを行うなどの積極的な対応を求めた。同省は、直接関わることはできないとし「環境保護に関しては県と調整していきたい」と述べるにとどまった(OT’02.6.5)。
2002年6月17日 環境監視検討委員会と「泡瀬干潟を守る連絡会」による海草藻場移植実験地の合同調査が行われた。調査には沖縄総合事務局と県の担当者ら事業者と、守る会、環境監視・検討委員会の海藻草類移植保全ワーキンググループ(以下海藻草類WG)の3 委員、「日本自然保護協会」のメンバー、そして推進派の「美ら島を創る市民の会」が参加した。調査後に市福祉文化プラザで行われた意見交換会で、自然保護団体と国は継続調査を行うことでは合意したが、実験の評価に対する見解のずれは埋まらないままだった(OT’02.6.18)。
2002年6月26日 沖縄総合事務局は定例記者会見で、守る会などの反対派市民グループと評価が分かれている海草藻場移植実験について、独自に判断した分析結果を発表した。それによると「水深など、移植方法を改善した1 月以降の移植は比較的良好な個所が多い。特に2 月に移植した2 地点は移植結果が良好で、今後の移植個所の適地として期待できる」とした(OT’02.6.28)。
2002年6月29日 奥谷通環境大臣政務官と環境省環境影響審査室の担当職員ら4 人が泡瀬干潟を視察した。奥谷政務官は「(移植実験は)長い時間をかけてしっかり検証する必要がある」と事業推進に慎重な姿勢を見せた。また着工時期については「当初からの約束事としてあるように、移植技術の確立が条件だ」と、着工はあくまで技術確立が前提との考えを強調した。環境省は移植実験による海草の生育状況について、「経過は芳しくない」と評価、その上で実験の手法や評価など総合的に再検討する必要があると判断した。次回の環境監視・検討委員会で提示される調査結果を見て、実験の再検討について事業者に助言する予定であるとのことだった(OT’02.6.30)。
2002年7月12日 環境監視・検討委員会の陸域・海域環境整備合同ワーキンググループ(以下陸域・海域WG)が那覇市内で開かれた。WG の会合はこれまで非公開だったが、環境団体や委員からの要望で今回はじめて公開で行われた。用意された30人分の傍聴席は自然保護団体や埋め立て推進派で埋まり、同事業への関心の高さを改めて示した(OT’02.7.12 夕)。
2002年7月24日 環境監視・検討委員会の海藻草類WGが沖縄市福祉文化プラザで公開で開催された。海草移植実験について「最低でも1 年間のモニタリングが必要」との見解で一致した(OT’02.7.25)
2002年8月10日 泡瀬干潟埋め立て事業の推進を目指す沖縄市民フォーラム「沖縄市東部にロマンを求めて」(主催・美ら島を創る市民の会)が沖縄商工会議所ホールで開かれ、約250 人が参加した。パネリストは小浜哲名桜大学教授、西田健次郎・美ら島を創る市民の会会長代行、照屋知子・市観光協会婦人部長、當眞勲・泡瀬復興期成会代表の5人。この席上、嘉数知賢内閣府政務官は「環境監視・検討委員会の判断も見ながら、9 月には藻場に影響がない場所から海上部分の作業に入れる」との見方を示した(OT’02.8.11)。
2002年9月上旬 沖縄市にある複合商業施設コリンザで泡瀬埋め立て事業を紹介するパネル展が開かれた。主催は沖縄総合事務局であったが、市東部海浜開発局も協力していた。パネル展では事業内容や海草・藻場移植実験の経過などを紹介。泡瀬干潟に生息する生物の写真なども多数展示していた。しかし興味を示す市民はあまりおらず、担当者も無気力であった。
2002年9月8日 沖縄市議会議員選挙の投開票が行われた。泡瀬埋め立て反対、見直しを政策に掲げた新人2 人が、3 位以下に大差をつけて当選した。しかしながら、地縁、血縁が当落に大きく影響する地方議員選挙の性格上、泡瀬埋め立て問題は大きな争点とはならなかった。選挙の結果、沖縄市議会における与野党の比率はほとんど変化が無かった。引き続き与党多数が続く状況で、住民投票条例が可決される可能性は極めて低いといえる。
2002年9月11日 環境監視・検討委員会の海藻草類WG が沖縄市福祉文化プラザで開催された。野呂主査は「潜って見た感じとして機械化移植でも50%は生き残る」と、深場における機械化移植を一定評価した。しかし他の委員からは機械化移植に対して慎重な評価を求める意見もあり、委員の意見が分かれた。手植え移植についてはどの委員も一定の評価をした。海草藻場移植実験については、来年5 月までの間モニタリングを継続して、その後生育状況を再評価することを決めた。また機械化移植工法は台風の被害が激しく、これを改善するため3 つの減耗対策工法実験を新たに実施することが承認された。この減耗対策工法とは、移植地盤を掘削したり、海草ブロックの間を砂で埋めるといったもので、これまでの移植実験よりもさらに大規模なものとなる。
2002年9月30日 環境監視・検討委員会が那覇市内で開催された。焦点の海草移植について、機械化移植工法による移植実験で来年5 月までモニタリングを継続、その後実験の評価をすることが了承された。また機械化移植工法の減耗対策工法実験を新たに実施することが確認された。また手植え移植について、数人の委員から慎重に検討するよう要望があった。しかし会議のまとめで真栄城委員長が「手植え移植は良好な結果を得られ」、「機械化移植実験によって適地の選定が行われた」ことを強調し、結果的に認められたこととなった。また陸域・海域WG の資料で、埋め立てによって干潟域の環境に多大な影響が出ることが示されていたが、それに関しては深い議論がなされなかった。委員会中「埋め立て前提でない話し合いをできないか」と、委員会のあり方そのものを問う提案が委員から出された。一方で、オブザーバーとして出席していた沖縄市の高良助役が「沖縄市は市域の36%を基地に取られ、大学院大学の誘地にも手を挙げられない。美里村との合併の背景には東部海浜の発展、港湾地区の開発があり、この事業は歴代の市長が取り組んできた。県の活性化、雇用確保のため早期着工をお願いする。市民の多くは一日千秋の思いで待ち望んでいる」と発言した。委員長は「地元の意見として総合事務局は聞き届けて欲しい」と付け加えた。
また同日、内閣改造によって沖縄担当相が尾身幸次氏から細田博之氏に代わったことがわかった。
2002年10月5日 沖縄総合事務局が泡瀬干潟埋め立て事業の海上工事を今月中にも再開する計画であることを、沖縄タイムスがスクープした。タイムス記事によると、月内着工は関係省庁との協議や県、沖縄市との調整が水面下で繰り広げられ、予算執行のタイムリミットなどを総合的に考慮した結果であるという。海上工事の月内着工に向けた環境整備は9 月30 日の環境監視・検討委員会の終了後あわただしく動き出した。総合事務局は2 日、担当者を内閣府などに派遣、藻場移植の実験結果や事業経過などを報告し、今後の事業展開について協議した。また、県や沖縄市の担当部局とも水面下で詰めの協議を続けた。協議の結果3 日には、事業着手の最大のハードルだった「藻場の保全」を、機械方式より移植結果が良好な「手植え工法」を採用することを決定した。本年度予算の執行や、工事に入れないトカゲハゼの産卵期(4-7 月)などを勘案した結果、今月内の着工がぎりぎりのタイミングと判断したようだ(OT’02.10.6)。
しかし、そもそも手植えによる移植は総合事務局自らが「不適」との判断を下したという経緯がある。その大きな理由が、手植えは機械化の約13倍近くものコストがかかるということである。事業者の発表によると、手植えによる費用は1 uあたり6 万3 千円かかるのに対し、機械化移植は同4千9 百円であるという。作業効率の点でも、ダイバーが人力で一株一株移植していく手植え工法では、1 人が1 日に作業できるのが10 uなのに対し、機械なら1 回で2.5 uの移植が可能である。これらのことから、総合事務局はその後、機械化による移植実験を行った。
総合事務局も県も市も、これまで藻場移植実験は順調にいっていることをアピールしてきた。そしてそのことによって「環境の保全に努めた事業」であることを強調してきた。ところが大型台風16号によって移植藻場は壊滅状態となり、守る会の独自の調査によって機械化移植実験の失敗が証明されてしまった。そして台風16 号後の9 月11 日に行われた第2 回海藻草類WG で、手植え移植のデータが再び登場することとなったのである。
しかし同WG で提示された手植え移植のデータは機械化移植のデータとの比較のためであり、「機械化移植よりは手植え移植の方が良好な結果が得られている」との結論が得られただけである。これまでの委員会および海藻草類WG では、手植え移植のデータはあくまで機械化移植の予備調査の域を出るものではなかったのである。その上、手植え移植工法はまだ確立されたわけではない。手植え移植については環境監視・検討委員会で「手植えによる移植実験は規模が小さすぎ、3 ヵ所でしか実験していない。広範囲な移植に適応できるか疑問」「機械化移植と手植え移植のやり方の根本的なちがいがある。それぞれのいいところを組み合わせてやるのには慎重になるべき」などの、専門家の意見が出されている。
2002年10月7日 沖縄総合事務局は記者会見を開き、翌日の10 月8 日から泡瀬の海上工事を再開することを発表した。当面は第T区域のみを対象としている(OT’02.10.7 夕)。第U区域の着工については、以前に尾身前沖縄相も検討が必要と述べている。
また総合事務局の担当者が「個人的な意見だが」と付け加えながら、「第T区域だけで工事が終わると島の形がいびつになってしまうので、今後その辺りの議論をしていく必要がでてくるかもしれない」と語ってくれた。
事業が第T区域のみで終了するかもしれないという予測は、反対派市民団体の中でも以前から話題になっていた。それは土地利用が見込めないということや、大型開発事業の縮小が全国的な潮流となっていることが原因と考えられる。
さらに、絶滅危惧種クビレミドロの移植技術が確立されていないことが、何より大きな原因であると言える。クビレミドロは「植物版レッドリスト、植物U:藻類レッドリスト」(平成9 年8 月、環境庁)における絶滅危惧T類、「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」(平成10 年、水産庁)における絶滅危惧種、「沖縄県の絶滅のおそれのある野生生物(レッドデータおきなわ)」(平成8 年3 月、沖縄県)における絶滅危惧種に、それぞれランクされている。平成12 年に作成された環境影響評価書においても、県知事意見として「(クビレミドロは)現在では、当該地区(泡瀬地区)を含む沖縄島の3 ヵ所でしか生息していないため、保護・保全を図る観点から特別な対応が望まれる」ことが記載されている。クビレミドロが生息するのは泡瀬干潟の約1.2ha であり、その全ての分布域が埋め立て事業によって消滅する。ところが、第T区域にはクビレミドロの生息域がかからないことが、事業者側の資料に示されているのである。総合事務局は様々な環境保全措置の中でもこのクビレミドロの保全を最重要視している。現時点ではクビレミドロの生活史の解明すらされておらず、移植後長期にわたる保全が可能かは不明である。そのため、第T区域のみの工事ということも考えられるのである。
しかしクビレミドロの分布域については、「琉球湿地研究グループ」の藤井晴彦代表から、事業者が示した場所以外での生息が指摘されており、より詳細な調査が求められている。その結果によっては、事業自体が中止になる可能性もある。
同日の10 月7 日には、沖縄県議会9 月定例会の土木委員会が開かれていた。その中で外間久子氏(共産)は、泡瀬埋め立ての海上着工を「強引なやり方だ」と批判した上、泡瀬干潟の環境保全を重視するよう求めた。安慶名正行土木建築部長は、環境監視・検討委員会において手植えによる藻場移植が評価されていることを説明し、「県としてもこの工法なら可能と見ている」と述べた(OT’02.10.8)。
2002年10月8日 海上工事着工を受けて「泡瀬干潟を守る連絡会」は緊急抗議集会を開催した。埋め立て予定地が見渡せる海岸沿いに40 人ほどが集まりシュプレヒコールをあげた。
2002年10月9日 「泡瀬干潟を守る連絡会」のメンバーが沖縄総合事務局を訪れ、今回の海上工事着工について抗議し、工事の即時中止を求めた。
2002年10月12日 細田博之沖縄担当相は記者会見で、泡瀬埋め立て事業について工事推進の姿勢を明言した(OT’02.10.13)。
2002年10月14日 環境監視・検討委員会の金本自由生委員がこのたびの突然の海上工事着工を受け、「総合事務局との信頼関係が損なわれた」などとして辞意を表明した(RS’02.10.15 夕)。今回の海上工事着工に関しては、他の委員からも不満があげられており、委員会全体としての対応を求める意見もあった。しかし真栄城委員長は、委員会を招集して事態の収拾を図る予定はないことを示した。総合事務局は今後、委員に個別に説明し理解を求めていく姿勢を示した。
2002年10月18日 環境省は、泡瀬埋め立ての事業主体である内閣府に対して環境への配慮を求める異例の申し入れを行った。環境省の申し入れは、@海草の移植計画の策定と公表A機械化移植工法の評価Bクビレミドロの移植技術が確立されたかどうかの確認に万全を期す、の3 項目であった。現在の環境影響評価法では、環境省が事業主体に意見を述べる法的権限はない(OT’02.10.19)。
2002年10月21日 赤嶺政賢衆院議員ら共産党干潟・湿地チームの代表は鈴木俊一環境相を()訪ね、泡瀬埋め立て事業の中止を内閣府に求めるよう要請した(OT’02.10.22)。
2002年10月27日 「泡瀬埋め立て事業に反対するデモ行進と抗議集会」が同実行委員会によって、泡瀬干潟周辺で行われた。
2002年10月28日 泡瀬干潟の埋め立てに伴い海草移植の対象となっているリュウキュウアマモの種子を、愛媛大沿岸環境科学研究センターの金本自由生助手が、与那城町の海中道路北海域で発見した。
同種の種子が国内で発見されたのは初めてのことであった。金本氏は「この時期のリュウキュウアマモの移植は難しい」と泡瀬での本格的な移植実施を危惧した(RS’02.10.29)。
2002年11月13日 「日本自然保護協会」は泡瀬干潟埋め立てについて「移植地の海草藻場は壊滅的な状況にある。移植実験によって二重の自然破壊が起きている」などとする調査結果をまとめ、内閣府と沖縄県に対し埋め立て工事の中止を求める意見書を提出した(OT’02.11.14)。
2002年11月17日 沖縄県知事選の投開票が行われた無所属で現職の稲嶺恵一氏(自民、公明、保守推薦)、無所属新人で元副知事の吉元政矩氏(社民、社大、自由連合推薦)、無所属新人で県医療生協理事長の新垣繁信氏、無所属新人で政治団体代表の又吉光雄氏の4 人が立候補していた。吉元氏と新垣氏は泡瀬埋め立て事業の見直し、即時中止を訴えた。しかし選挙の争点は経済問題におかれ、環境問題や基地に関する政策が大きく取り上げられることはなかった。選挙の結果、稲嶺氏が2 位の吉本氏に21 万票差という大差をつけて再選された。投票率は57.22%で、知事選では過去最低であった(OT’02.11.18)。現職の稲嶺氏が再選されたため、県の泡瀬埋め立て事業推進の立場が変化することはなかった。